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Texte intégral

(1)

ヨーロッパ人の日本宗教へのアプローチ : エミー

ル ギメと日本の僧侶、神主との問答

著者

ジラール フレデリック

会議概要(会議名,

開催地, 会期, 主催

者等)

会議名: 日文研フォーラム, 開催地: キャンパスプ

ラザ京都, 会期: 2008年6月11日, 主催者: 国際日

本文化研究センター

ページ

1-47

発行年

2010-09-30

その他の言語のタイ

トル

The approach of a European towards Japanese

religions : the dialogues of Emile Guimet with

Japanese monks and priests

シリーズ

日文研フォーラム ; 214

(2)

● テーマ ●

ヨーロッパ人の日本宗教へのアプローチ

―エミール ギメと日本の僧侶、神主との問答―

The Approach of a European towards Japanese Religions : The Dialogues of Emile Guimet with Japanese Monks and Priests

● 発表者 ●

フレデリック ジラール

Frédéric GIRARD

フランス国立極東学院 教授

国際日本文化研究センター 外国人研究員 Head of Researches, Ecole Francaise d'Extreme-Orient

Visiting Research Scholar, International Research Center for Japanese Studies

(3)

フレデリック ジラール Frédéric GIRARD

フランス国立極東学院 教授

国際日本文化研究センター 外国人研究員 Head of Researches, Ecole Francaise d'Extreme-Orient,

Visiting Research Scholar, International Research Center for Japanese Studies

略 歴 1980 年 日本語学博士号(パリ第七大学) 1982 年 パリ高等学院文献学歴史学部ディプロマ取得 1991 年 フランス国立極東学院 常任研究員 2003 年 フランス国立極東学院 教授 2007 年 8 月 国際日本文化研究センター 外国人研究員 就任(2008 年 7 月迄) 著書・論文等 著 書

2008 Vocabulaire du bouddhisme japonais 日本仏教語彙集, École Pratique des Hautes Études, Sciences Historiques et Philologiques, II, Hautes Études Orientales 45, Extrême-Orient 9, Deux Tomes, Droz, Genève, 2008. LXXX+1688 pages, ISBN 978-2-600-01228-7

2007 The Stanza of the Bell in the Wind: Zen and Nenbutsu in the Early Kamakura Period, Studia Philologica Buddhica, Occasional Paper Series, XIV, The International Institute for Buddhist Studies, Tokyo, IV + 81 pages, ISBN 978-4-906267-60-6

共 著

2001-2002 Repenser l'ordre, repenser l'héritage - Le paysage intellectuel sous le Japon des

Tokugawa (1600-1868), Droz-EPHE-IVe section, Paris-Genève, en collaboration avec Mmes

Annick Horiuchi-Baba et Mieko Macé, XXI=524 p, ISBN 2-600-00641-9

1997● Proverbes japonais 日本の諺- 365 proverbes pour tous les jours -, Guy Gagnon, Frédéric

Girard, Emi Inoue, Editions You-Feng, Paris, V+175 pages ISBN 2842790324

論 文

2007 “Some aspects of the Kegon Doctrines at the begining of the Kamakura period”, Reflecting

Mirrors, Perspectives on Huayan Buddhism, Edited by Imre Hamar, Harrasowitz Verlag,

Wiesbaden, pp. 309-324 2007 ●「凝然大徳の『聲明源流記』―南都仏教と念仏との接点―」『論集 鎌倉期の東大寺 復興 重源上人とその周辺』ザ・グレイトブッダ・シンポジウム論集 第五号、東大寺(法 蔵館)、奈良、pp. 25-34. 2006●「如浄禅師の風鈴頌の伝播―鎌倉時代における禅と念仏との交流-」、金澤文庫研究、 317 号、pp. 1-9. (年号の後ろに●のものの、執筆言語は日本語)

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- 1 -

ヨー

ロッパ人の日本

宗教へのアプロー

―エ

ギメと

僧侶、神

主と

の問答―

エミー ル ・ ギ メ( Émile Guimet 、一八三六~一九一八)は 、年代的に は十九世紀と二十 世紀にまたがる人 です が 、 ある意 味 で は 完全 に十九世紀を象徴し て いる人物と 言 えます 。 実業家の家系に生まれ 、若い時から自 分の人生を自 分で 決め、家業を継承しな がら、一種 の人 間中心主義の人 生 を送り、理 想 と思っ て いた ことを勇敢 に 実現する ことに 努 力し、成 功したとも 言 えます 。 彼 の 業績を見ますと、 非常に幅広く、 か つ驚くべき 教 養の持 ち 主 で 、 ギ リ シ ャ ・ ラ テ ン の古典の み な らず、ヨ ーロッ パ 中世・近世の歴史およ び思想の学問 も汲 み、 また、 他 国の文化への 好奇心 も 旺盛 で 、 歴史学の方法論に注意し な がら修身を完成し、 自己の心を 養った人物です 。 一方 、彼自身の 人 間性もま た特筆 す べきです 。彼が父から受 け 継 いだ 家 業 の方 針で は 、 人間 社 会 に お け る 以 上 、で き る だ け 利 他 的 に 公 正な 態 度で 、 正 義と平等 の精 神を もっ て会社 の 雇 人 に接 するよ う 配慮し て い ま す。そ の よ う なと ころに、 人間 への尊 厳 を重 んじ る態 度が 見 ら れます 。 それは いか にも フ ラ ン ス風で は あ りますが 、 当時の理念とし て 彼が 信じた、社会主義の原 理に基づ いて います 。 さらにそれは、特に十

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- 2 - 九世紀 に 、例えば ドストエフス キーのよ うな 知識人の 間に流 行 し て いたフ ー リ エ ( Francis Marie Charles Fourier 、一七七二~一 八 三七)の 思想にも適 っ た考え方で し た。 ギメは 、 フラ ンスの地 方都 市 で あ り ブル ジョ アを象徴す る 町、リ ヨ ンで 一八三 六 年に生 まれ、 リ ヨンの北、 十 五キロ位のフル リ ュウ ・ シ ュー ル ・ ソーヌ ( Fle urieu-surSaône ) で一 九 一八年に亡くなります 。エ リート コ ースを歩 んだ優れた 人 物と いって よい で し ょ う。父親 は 、 特殊な蒼色の発明 で 有 名になった化学者兼実業家 で、 Bleu Guim et 社を 創業し、その 蒼色は Bleu d’Outre-mer (ウルトラ マ リ ン)、もしくは本 人 の名 で 知 られ て い ま し た。母 親は画家 で し た。息子 のエミールは両親の影 響を受け 、 幼い頃から 美術的な 感 性 に優れて い て 、陶器 、絵画、音 楽に傾倒 す る 一方、学 問、文芸、文学にも造詣が深く、 人 間と 社会 の発展の中 心 をなす哲 学や宗教の 問 題に 深 い 関心を持つ よ うになります。ある意味 で は仕 方 なく一八六 〇年に家業 を 継 ぎ 、 後 の一八八 七年にペシネ株式 会社 と 社 名を変更し ま すが、 早い 時期から会社 を自分の実験場とし て い ま す。会社の雇人 に、自身 で 作った曲 や他の音 楽家の曲を 演 奏し なが ら町中を行進させたり しました。 彼 の考え で は、自 分 と 社 員とが会 社の中で 、 フ ーリ エの いう「ファラ ンステー ル」 社会の 最小単位か らなる理想 社 会に相応 しい 一 種 の家族を構 成する ことに よ り、理想的 な 社会 ができ上 がると思い 込んで いたの で す。ギ メ は労働 者 の権利の 弁護人と なり、先駆 的 な役 割を 果た し て い ま す。特に、 労 働 災

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- 3 - 害保険や退 職 年金の権利につい て は 法 律 的に 認められる 以 前に具体的に保障 す る とともに、 社会的な進 歩 は先ず教育を通じ て 成 されなけ ればい け な い とい う 先 駆的な態度の持 ち 主 で した。 こ の よ うな ブル ジョア上流階級の社会主義はフ ラ ン スの産物と思われ、 そ う い う思 想は フラ ン ス の 社 会に 深 く 根ざ して いると 言 え る で し ょ う 。 そのような 思 想の中に は、カトリ ッ ク教会が 作っ て い た 伝 統神学や 道徳価値シ ス テムへ の抵 抗思想が流 れ て い て、無 神 論的 な要素 が 多 分 に入っ て い ま したの で 、 キ リ ス ト教 以外 の宗教 や 思 想 システムへの関心 が 高 まりま す 。 多 神教 や、 神 の 存在 を軽視し無 視 した儒教、 と り わけ 仏 教 等は 、近 代思 想の要 求 に応じる ような 宗 教思 想 で もあ りま した。 仏 教は 特に 十九世紀には、 カ トリ ックの神のような 道徳的 権 威がなく 世俗的な哲 学 思想のように映り、 知識人 だ けでなく、ギメと親しか っ た政治家で 社 会主義 者 のジュー ル・フェリ ー 文部大臣 や、頑 固 な 性 格 で 知られ、自由思 想 と日本趣味を持つジョルジ ュ・ク レ マン ソー大統 領や レイモ ン ・ポア ン カ レ ー大統 領 、元 文部大 臣 で、 トン キン とア ン ナ ン の 首 領 で あ った ポ ー ル・ベールも非常に関 心を持っ て い ました。例えば、一 八 七一年に フ ラ ンス で 東 洋美術館 を開いたチェルヌスキが来日し、 美 学的な関 心によっ て 高 額な美術品を集め ま し た が 、そ の態度に比 べ れば、ギメはあくまでも思想的 な関心により東洋を遊学旅行しようとし、学 術的な目的で 宗教彫刻 や絵画、書物を収集しました。大きな宗教思 想や宗教システムを開

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- 4 - いた祖師者は 必然的に当代の社会 問 題を解決で き た人物だ った、と 信じ て い た ギ メは、宗 教の 研究に よ り必然 的 に現代のフランス社会の問題を解く ことが で きると思い込み、 パ リ に新 しい 宗 教 と思想 を 伝 え よ う と し た と 言 え る で しょ う 。 一八六二年 のスペイン旅行に続いて 一八六五 ~ 六六年、 ギメは三十 歳 にならな い う ちに、 当時 すべ て の 文化の 源 の国 とされ 、 昔から憧れ て いたエ ジ プトを観光し、 間 もなく『エジ プト畫、或 る 観光者の 日記』( Croquis é gyp tiens : Journ al d’u n to uriste )を 旅 行 記と して 出 版します 。 翌 年には 、 リ ヨ ン学士 院 の会員に な り ます 。 そ の頃、先 駆的な 歴 史 論 法で イエ ス ・ キリスト の伝記を書 い たエルネ スト ・ ル ナン の推薦を受け、 東 洋学会 ( Société Asiatique ) の会員にも な っ て います 。 一八六 八年、 す な わ ち 明治 維 新 の 年 には 、 当 時東洋の一 種 と見 なされ て いたギ リ シ ャ ・ ト ル コ ・ル ーマニアの国 々を旅 行 し、その紀行 である『畫 で 見 ら れたヨ ー ロッ パの東洋』 ( L’O rient d’Europe au f usain : not es de vo yag e )を出 版 します 。 ま た同じ く 、東洋とも考えられ て いた北アフ リ カの国 々 、アルジェ リ ア と チ ュ ニ ジ アを一八 六九年に旅 行 します 。 十九 世紀に は ナ ポ レオ ンのエジプ ト 侵略や、 その結果と し て パ リ の コ ン コ ル ド 広 場 の 中 心 に運 ばれ た 、 エ ジ プト の象徴 、 オ ベ リ ス クの イメー ジ 等 の 影 響 も あ っ て 、東洋 趣 味が 流行 し、北アフリカから中 近東まで の旅 行は 、文 人にと っ て 不 可欠なコ ースのよ う に なり ました。詩人 ラ ン ボーの絶 筆 宣 言の前に、フロベールやネルヴァル も東

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- 5 - 洋紀行 を 残し てい ま す が、ギ メ が 特 にネルヴァ ル の 日 記を読ん だのは、た だ の偶然 と は思 えません。 一八七二年 に ギメは、 それまで の 観 光や読書体験を記し た 『エジプト人のアジア』 ( De L ’Ascia des Égyptiens )と い う 書 物 を 出 し て い ま す 。 ギ メ の 東 洋 へ の 関 心 が 深 ま り と 広 が り を見せ て いる頃、 パ リ では一八七三年に日本 学者のレオ ン ・ド ・ロ ニー( Léon de Ros ny 一八三七~一九一四) の組 織により第一回国 際東洋学会が開催され 、ギメは学 会 の極東部 すなわち 、中 国・日本 ・インド ・ タ タールを 扱った部門 に 登録し参 加し て い ます 。それが 決定的なき っ かけとな り、彼は東 洋 の文化と 宗教、近代 人 類学・民 俗学の方法 論 に関心を 深 め て い きます。 ド・ロニーの民 俗 学的方法 論 は 一種の 考 証学 です が、東洋 が 精 神におよ ぼした作用 を その考察の中心に置 い て い るこ とが 、時代をよく反映 し て いると 言 える で し ょう 一 。学会 の 中で ギメ は 、 日本宗 教 学者のホ フマン H offmann 、エリオット Elliot 、サト ー Satow 、 サンスク リ ッ ト佛教学 者のフーコ ー Foucaux 、中 国 学 者 の レ ジ ェ Legge 、真 宗 の知識人の 島 地黙雷、エジプト学 者 のマスペロ Maspéro 、元中日ス イス大使 で 日 本宗教 に つい ての著作 を残し て い る エイ メ ・ アン ベール Aimé Hu mb ert とい う学者 や 、 日 本政 府 の 代表者に会う機会を得ました 二 。 そ の 豊 富 な蔵書 か ら推測し ま す と、 おそ らくギメは、 ホフマン ( Johan n Jo seph H offman n 、

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- 6 - 一八〇五~七八) が 翻 案 し日本仏 教 を 紹介した書 物 と し て 当時有名 だった、元禄時代の土佐 秀 信筆『佛像圖 彙』 (一七八三) を読ん だ もの と思 わ れ ま す 三 (図一) 。 ホフマンの日本宗教の紹介 は、シーボル ト( Phili pp Franz von Sie bol d 、 一 七九六~一八六 六) の 『 日本』 に おける宗教 描 写 の 一部にあ たりますが 四 、 シ ー ボ ル ト は 、 神道 、仏教、 儒教 につい て 描 写 する 中 で 、 ど の 宗 教 が 一番良 い かと か、日本 人はどれを 最 も深 く 信 仰し て い るか とい う の ではなく 、 む し ろ 、日本人 はそのいずれ にも通じ て お り、いずれをも信仰の対象として 平 等に 扱っ てい るかのよ うに紹介 し て いま す。そ し て、ギ メ にと っ て も ま た、日本 人の宗 教 は 、 仏教か、神 道 か、 それとも 儒 教 かと いっ た、二者択 一 的な 態 度 を示すも ので はな かっ たと思わ れ ま す 。 む し ろ ギ メは日本の宗教 を 全体 とし て 把握し、仏 教のパンテオンを一種 の組織化された宗教 界 と見 て い たに違い ありません。シーボル トは 、日本の宗 教 現 象 と信 仰者の心理を上下の 別 なく、流 れ の 区別なく 扱い、『佛像圖彙』 も 最も俗的な 世 界から最も聖 なる世界に至るま 図1 『仏像図彙』ギメ美術館図書館蔵

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- 7 - で、 すな わち、 世 俗 的 迷信 の 対 象に なっ ている も の か ら 、 ヒンズー 教 ・ 道教 ・ 儒 教 ・ 神道・ 陰陽道・仏 教 す べ て の 信仰の本尊 に な っ て い る人物・神 ・ 菩薩・佛 等 す べ て を 少 しの漏れ もなく宗教の象徴の諸 相とし て 表 し 、構造的 に紹 介し て い ます 。ギメは それを 読 んだ上 で 自 分 のコレ ク ションの 構想を練り 、 『佛像圖 彙』の中から仏教パン テ オ ン各部の代表者、 要 す るに祖 師 部、人間 の世界、権現部、日本 の神々の世界、本地垂 迹の神仏混淆の世界、 天部、外来とり わ け印 度の神、明王部、人 間 の煩悩を煩 悩 で 治 めた 人 物 、菩薩 部 、人 間の 精神を理性と 智慧で 回 心させた人物 、仏部、 仏教の基礎 概 念を象徴す る 人物 、と いった代 表的な イ メ ー ジを取り 入れ ようと し ま し た。 ただ し、神 々 や本尊の完 璧 な分 類とは 言 い難 く、 また、一 種のヒエラルキーを作っ て い ま すの で、 日本の 神 々 は あ く ま で も そ の ヒ エ ラ ルキーの下 位 に置かれ、 中 国の神々 も本来の位 置 から遠く な っ て い ます 。 そ の分 類 の 中に、 「道具」と い う部門が 設けられ て い るのも興味 深 い点 で す 。と言 う のも、ギメは、佛・菩 薩・天神・神々の人格や個性よりも、パンテオン とい う宇宙概念の中にどのような役割や 機 能 を 配 置し 、 そ の 機 能 の 分 類 によ っ て 日 本 の 本 尊 を どの よ う に 補 え ば よ い のか とい う 課 題に突き当 た った と思われるからです。 すなわち 、ギメ の 収集の目標は、一種 の 機能表を 作った上 で そ の表の中 のブ ラ ン クを埋めるこ とにあったと思われます 。 さらに一点 気 がつくこ とは、 ギ メは よく 『佛像圖 彙』 を参照し たには違いありませんが 、

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- 8 - そ の 割 に は これ を 絶 対的 なモ デ ル に は し て い な い こ と で 、 ギ メ は 自 分 なり の 機 能 の カテ ゴ リ ー 表を 作 り つつ 、 日 本 に 滞在中 、 自分 の頭 の中で そ れを整 理 して いたも の と 思 わ れ ます 。 例えば、『 佛 像圖彙』に記載されて い な い も のを日本で 収 集し て 、 同行し て いたレガメー にスケッチさせたりして い ま す 。ギ メにとっ て 非 常に重 要 な東寺曼荼羅は、『 佛 像圖彙』 の中には 見当 たりま せ んし、ま た 、 彼が訪 問 したお寺も 『 佛像圖 彙 』には 、 ほ と んど 描 写 され て い な い の で す 。 ギメは来日 前 の構想に 加え少しずつ、宗教の学術的な把 握 の仕方や 方法 論を築 き 上げて い ます 。その 宗 教世界と はどのよう な も の だ っ たの で し ょう か。それ につい て は 後 で 述 べることにします 。 一八七六年 に ギメは、フ ラ ンス政府発行の同年四月十日 付 け 派遣 勅 令 文書 を受け、学術 的な 目的に よ り文部省 の奨学金を 得 て 、 東洋 諸国の宗教を詳しく研 究す るためにフ ラ ンス を出立 し ます 。そし て ま ず 、米国 フ ィラ デル フィア万博 を 訪れ、繊 細 ながら表 現力の抜群 に優れた画 家 、 フ ェリ ックス・ レ ガ メー ( Félix Régamey 、一 八 四 四 ~ 一 九 〇 七 ) や 河 鍋 曉 斎(一八三 一 ~一八八九)に会って います 。 当時、 写 真 家 の役目を 務め て い た画家のレガ メーを連れて 、日本 ・ 中 国 ・印 度 ・ セイロン へ宗 教調査 に 出かけます 。 彼は、 学 問の方法 に つ いて 次 の よう に 語 って いま す 。 「 私 の 関 心 の 対 象 と な って いる 古 代 や エ キ ゾ チ ッ クな

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- 9 - 文化を本当 に 評価し味わ い たい な ら ば、自 己 の教育や文化環境から受けた信仰や偏見を取 り除き、そぎ落とさな ければい け ま せん。孔子の思想を把握するた めには、中 国 の儒者の 頭脳を持たなければいけませんし、仏陀の教えを理解 す る には仏教精神を自 分 の ものにし なければいけません。しかし、書物や物品の 収集に触れ た だけ で そ れが可能 になる で しょ うか。思う に 、成果を 上げるには 、 現地を旅 行し、信者と接触し、 信者と話し 合 い、信者 の 行 動を見る こと が不可 欠 な条 件 だ と思い ま す。そ う 言っ た 訳 で、以前 エジ プト とギ リシ ャを観光し た と同様に 今世界を一周し て 、 日本・ 中 国・印度を見学することに 決心いたし ました」。 し かし、ギメが訪れた日本はち ょ うど宗教改 革 の真最中で 、 排キリ ス ト 教 、廃 仏 毀 釈 、 神仏 分離 の政策 が 相 次 ぎ、 大教 院 と い う 機 関 におい て 神仏合 一 を目 的化 さ れ た の に続き 、 特 に 浄土 真宗 の島地黙雷 の 抵抗運 動 に よ り、ギ メ 日本 到着 の 前 年には 、 その大 教 院 が 解 散 され る と い っ た 、 凄 ま じい状況 に あ りました 。 実 際、 ギ メ が論争した 僧 侶た ちは、 そのほとんどが 元 大教院の説法者で したから 、当時の最 も 代表的な 宗 教 者と 付き合うこと がで き 、 そ れ は 仏 教側 にと って は 寺 院と 宗派 を擁 護す る 機 会ともな り、お寺 の 彫 刻 美 術品 等を 手放す の も 容 易で した。 こ のこ とは 、 ギ メに と っ て も 非 常 に幸運で あ っ たと い え ます 。 日本に着く や 否やギメ は、 一秒たりとも時間を 無 駄にす る ことなく観 光 し、 情報を 集 め、 宗 教 道具・ 美 術品、お よび宗 教 書を 始めとす る様々な分 野 の書物収 集と 、宗 教運 動 の 代表

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- 10 - 者との教学 的 な議論を 目的にした旅に出ます 。八月二十 六 日に横浜 に上陸し、九月二日に 東京に到着。 ほとん ど 休みをとることなく、日本在住経験のあるシャルル・ヴィルグ マン ( Charles Wi rgman 、 一 八三二~一八九一) [ 日本 ではチ ャ ールズ ・ ワーグ マン と し て 知ら れる]と いう英国の新聞記者兼漫画家を連れて 金 沢八景や鎌倉、片瀬江ノ島に 取材旅行に 出かけ た 後 、 同月九 日 に東 京へ 戻 っ て 、 忠臣 蔵 ゆ かりの 泉 岳寺や 、 上 野 にあ る 徳 川 家 の 菩 提寺で あ る 寛 永寺、芝 の増上寺を 巡 り、浅 草 寺の貫首、 唯 我韶舜 ( 一八〇四~一八九〇) に会い、河 鍋 曉斎を訪 問します 。 同 月十二日 から十五日までは日光 を 訪れ、日 光 の住職、 修多羅亮延 (一八四二 ~ 一九一七 ) に面会します 。十月 上 旬には、近藤徳太郎と歌原十 三郎 とい う優れた 通 訳 者 を 連れ て 東 海道 を人力車 に乗っ て 進み、同月四 日に箱根の 関 を通 過し て 、 九 日 は名古屋 に泊ま っ て 長 栄寺の住 職に会い、 住職様の手 から悉曇[ 日 本 仏 教に おけるサン スクリ ット 学]の手引 き を授かり ます 。十三 日 と十 四日 には 伊勢神 宮へ行き 、 宮司 であっ た 田中頼庸と浦田長民に会ったと 推測できますが、議論はできず、 た だ神 楽を 見た だけで が っかりして 去っ て います 。 十六日には京都 に 到着し て 、六宗派の僧侶と談議 して います 。 当 時 、 大 津 の 日 吉 神 社 の 大 宮 司 、西 川 吉 輔 は 、 ギ メ を 宣 教 師 だ と 思 い込 んで 会い に行 こうとし て い ま す 。ギ メは旅行 中、福沢諭 吉の海外 旅行 や 万 博の レポートに て 美 術 富 国を主張したり、 有名な京都 府 副奉行の槙村正直( 一八三四~一八九六)や、美術・

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- 11 - 文化・文芸の振興策を 強く推し進 め た九鬼隆 一(一八五 〇 ~一九三 一)の援助によりい ろ いろ と 見 学 し た り で き た の は 幸 運 で あ っ たと 言え ます 。 殊 に 、 三 重 県 の 著名な 經 仏 師 、 山 本藻助に東 寺 の立体曼荼羅のレプリカを注文できた こ と は 、ギメが 日本旅行 で 達 成した大 きな 出来事 と 言えまし ょう 。 ギメは十一月三日に神 戸から上海 へ 出発し、 中 国 には一カ 月間ほど 滞 在します 。 そ の後、 印度 には少なくとも一週間滞在して 、 セイロン も訪問して い ます 。 し かし、中 国 と 印度、 セイロンの 観 光には随分がっかり し たよ うで 、旅程を大幅に短縮して帰国します 。翌一八 七七 年三 月に パ リ に到着 し て間 もなく、 文部省へ レポ ートを 提 出し、 『 ボンジュールか な 図2 ギメ『日本散策』(1878) 図3 ギメ美術館(パリ、イエナ広 場)の内部および外観

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- 12 - がわ 』( Bonjour K an aga w a !)や、『日本 散策』 ( Les prom en ades j ap ona ises 、 図二)を出 版。翌一八 七 八年にも レ ポ ートと 『 日本 散策 』を出し て い ます 。お そらく 手 を 加 えて は い た で しょ う が 、その著作の冒頭で 旅 行の印象 を、日本に 着 いた途端 にあたかも キ ケロの作 品から逃げ 出 した人物 に会っ て 古 代 ローマに いたかのようだ 、 と 述 懐し て い ます 五 。 日本 観光後 の ギメ の活 躍と して は 、 レ ポ ート の中で 述 べて いる よう に 、 美術館 を 造った こと (一八七九年にリ ヨン で 、 文 部 文芸大臣 のジュール ・ フェリー 臨席の下、 ギ メ 美 術館 を創 設) と 、 美術 館 を 通じ て東洋とフ ラ ンスとの知 的 交流 を開いた こと、出版物を刊行し た点 が挙げ ら れます 六 。美術館を 、 印 度 ・中 国・日本 ・エジプト ・ ギ リ シャ ・ロー マ のす べて の神 々 を 含 め た宗 教 美 術 館 に し た い と 言 って います 七 (図三)。 出版 物に関 し て は 、 ギメ 美術館 発 行の雑誌 ( Annales du Musée G uim et ) と 単 行 本 シ リ ー ズ ( Biblio thè que d’Étude s du M usée Gui m et ) の ほか 、 一八八〇 年 にはコレ ージュ・ ド・ フ ラ ンスと組ん で 『 宗 教学雑 誌』 ( Revue de l’H istoire des Reli gio ns)を 創 刊 し ま す 。 一 八 七 八 年 に ギ メ は 故 郷 の 町 リ ヨ ン で 国 際東洋 学 会を組 織 し、パリ 万博で は 日本で 集 めた美 術 品、特に 東寺曼荼羅 の レプリカ を展示し て い ます(図 四)。その 折 に、大変 興味 深 い 目録を作っ て い て 、それ を 参 照 する と、真 言 密 教 は同 じエジ プ トか ら生まれたイシ ス 信仰 の東洋 的 なヴァ リ エ ー ショ ン で あり 八 、東寺曼荼 羅 は イ シス 銅板の東洋 的 な産物で あると 考 えて いた こと が 窺 わ れ ます 。

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- 13 - ギメ の学 術 的 な 足 跡は終生 イシス信 仰に 集約 で きますが、 こ こ か らも、おそらくギメはイシ ス 信 仰こ そが 、彼が 考 える宗 教 学の基礎的 構造を表現 して いる と 考 えて い た も の と 想 定 で き ま す ( 図 五 ) 。 一 八 八 三 年 に 『 ロ ー マ 風 の イ シ ス 』 ( L’Is is romaine ) 九 、 一 八 九 五 年 に 『 ア ピ ュ レ ー の 神 』 ( Le Dieu d 'Ap ulée )、一 八 九 八 年に 宗教的迷信に反 抗 したプルタ ー ク[プル タル コス]の哲学を説 明 し た 『 プ ル タ ー ク と エ ジ プ ト 』 ( Plut arq ue et l’Égypte ) 一〇 、一九〇〇 年 に『ゴー ル の イシス崇 拝教団』 ( Les Isiaques de la G au le 一一 と相 次い で 出版し、宗 教 のシステ ム に つい て考 え て いた 傍 証 にな りますが 、そう し た著作の中 で プラ ト ン の 哲 学が 常に最高位にある ことは 、 ギ メ 自身の考 え方 を映し て い る と思 われ ま す 。一八 八 四 年 、ギ メ は フラ ン ス 政府にリ ヨ ン の 美 術館を寄付 し 、一八八 図4 ギメ美術館 東寺立体曼荼羅

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- 14 - 九年にリ ヨンからパリに移設され、 サディ ・カルノ大統領の下で 、 開館 されます 一二 。 以 降、 一八九三年と翌 九四 年にか け て 、 日本 や印度から 何 度も 僧 侶 を招 聘 し て 仏 教法 要を 行っ て い ます 。 一 九〇〇年から〇三年に かけて は 、 中 国や エ ジ プト の文化と 宗教 につい て 連 続 講演 会 を 開催し 、 パリ 万博を機に日仏協会の副会長に 就任します。パリで 人 気を博した ギ メ美 術 館 で は 一 九 〇五 年に は、 の ち に、政権 を脅か す 女ス パイ との風 評 も得た 、 有名 なマタ ・ ハ リ Mata Hari の舞踊公演も行っ て い ま す 。 ギメが生 涯にわ た り研究し続け た イシス信仰 は 、古代ギ リ シ ャ・ロ ー テーブ市守護神と神々の主宰神ホル スの母としてのイシス 天の神々の主宰神オシリスの妹として のイシス 図5 ギメ『ローマのイシス』より

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- 15 - マのパンテオンの神々 と、 各地の現 地信仰の神 々 とを混淆 させ て い る 点 に特色が あります 。 その構造 は 概 ね、一つの決まった機能 や 役 割 を持 つエジプトの 神に ギ リ シ ャ と ロ ーマの 神 を 当 てはめ、そ う い っ た 基 礎 の 上に現地 の 神 を 当 てはめる とい うも の で す。エジ プ ト の 神 とギ リシ ャの 神ヘロ ド トス ( H érodote 、四 八 四 ~ 四 二 五 )を 結 び つ け た の が 最 初 の よ う で すが 、後に 形 而上学的 に幾つかの 存 在のレベ ルを用意し 、 新プラ ト ン派の哲学 や ヘルメス 聖典の神秘 的 な 解 釈に基づい て tr an slati o gr aec a (ギ リシ アへの文化 移 動、 譲与 ) が 行 わ れ ま した 。そ の 結 果を略記 する と次の 通 り で す。 エジ プト ギリ シャ ローマ アモン ゼウ ス ユピ テル( 主 宰、天) オシ リス デイ オニゾス バークス オシ リス ハデス プル ト=セラピス (イシスの夫+アピスの牡 牛) オシ リ ス = カ ノペ(火 之神、壺の中に死者の 内臓を納める壺、 水を吐く人 間 の頭の壺、ロ ーマ、ポン ペ イ) イシス デメ テール セレ ス

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- 16 - イシス イヨ、プロメ テの娘( 十六世紀) ホルス アポロ 男性のヘカト 童子ホルス 、 Har-pe-her ed=ハルポク ラ ト H arpocrate (エ ロス羽童子) 青年ホルス = Aro ëris (密儀 の 沈 黙 の 神 ) 三頭、蛇體 の セルベル Signum trice ps (獅子=現在、 犬= 未来 、狼= 過去)(輪廻無常 の時間) トッ ト―野生犬 頭 アヌ リス ヘルメス メルクール(智慧、文字) こ の よ う な 構 造を徹底 的に整理し た のがルネ サンス時代 の 思想家たちですが 、例えばマ ルシ リオ・フ ィチ ーノの 『 プ ラ ト ン 神学』 ( 一四 七四 年 ) によ れば、エジ プ トとプ ラ トン とキ リス ト 教 の宗教 哲 学は、いずれも真理と 愛 と し て の絶対神を明らかにし て お り、ヘル メス ―トット聖典 はプラトンの 哲学 や福音の源 で あっ て 、 オシ リスの 神 話 は キリス ト の パ ッション[ 受 難]にな ぞらえるこ と がで きる と主張 し て い ます 。へ ルメ スの象 徴 たるカデ ィユーシ ェ(ケル ケイオン) は オリーブ の枝を捲く蛇から成っ て い て、弁舌 や 商 売 や 医 学 の象徴で も あ ると いいますが 、 仏 教 で い えば 、仏敵の悪 魔 を降伏さ せるクリカラ 不動 の形 に似 て い ますし、魔除けと心身浄化 と和泉 の 発掘の役目を果た す 地 蔵菩薩の錫杖とも類似

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- 17 - して いる 、 と ギメは 指 摘して い ま す 。 イシス伝説 に よれば、殺され て ニール川に捨て ら れバ ラ バ ラ の 體にな っ たオシリ スは妻 のイシスに よ っ て 甦り 、息子のホ ル スを産ま せます 。オ シ リ スは 豊穣と再生を 象徴す る 神 とし てニー ル 川と同一視されるとともに、セラピス・ オ シ リ ス と 牡牛のア ピスの合一 神 に し て 土地・豊 穣・ 言 葉 ・ 植 物・ 再生の 神 であり、 あの世の 神の 長い髭の 老人 ハデス の 姿 で 三頭の犬 ( 犬 、狼、獅子)を側におく、時間と永遠の 神 、 植物の 冠 を被った農業豊 穣 の複 合神で も あ り ます 。カ ノプと い う 名 前 で 知ら れ、聖水と 豊 かな再生 の植物と して ディオニ ソス と合一された オシリス は、手に剣 と 鞭 を 持 ち 、羽の付いた宝石 冠を被ったミイ ラ の姿 をと っ て お り 、ローマ やポンペイで 死と再生 の密 教的な 性 格を帯びて い る儀式[一般には 「密儀」と 呼 ばれる] の本尊とも さ れ て い ま した。 プルターク[プルタルコス]によれば、オシリスはニー ル 川、イシスはニール川に養 わ れて いる 土 地 のこ とで あ り 、ホ ル ス は そ の土 地 か ら 出 た 植 物 や 食 べ 物 等 を 表 して います 。 各々 の神は 、 それぞれ が 一 つひ と つ の宇宙的 な 原 理を合 理 的に説明す る も の で あ り、哲 学 的な 概念が 象 徴的な 姿 かた ち を 纏 っ たも ので ある、と 見な されます 。その世界 観 は 、 神々 を、 ある摂理の 下 に治め ら れた 神 格 と見 なし ており、ギメはそ れを仏教 の因 縁に 例え てい ます 。

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- 18 - イシスはギリ シャ風 オ シ リ ス神 話 の 主宰 神として 、 豊 穣・農業 ・ 結 婚・ 社会 秩序の女神 デ メ テ ールと融合し、 エ レウ シスの密儀の本尊、 運 命の神とし て も 、 近世ヨーロ ッ パ で 崇められました。 十六 世紀のヒエ ロ グ リ フへ の関心と、 と りわ け、 い わ ゆる 「イシス銅 板 」 の 発見とが 、 イシス崇拝 を 復興させ 、 エ ジプト 神 話の 研究 を進展させ ま した。 「イシ ス 銅板」 と は、 イシ ス を 中心 に 三十五柱の神を描いた 銅板です (図 六) 。 この 図像 は、 明 ら か な 偽 作 でありま すが、 伝説で は 一五二七年にローマで 発見さ れて 後 に ト リ ノで 保 存 さ れ た 有 名 な 「 イ シス銅板」、 即ち 、 プ ラ ト ンに伝えられ たと 云わ れて 新プラ ト 主義 的な 解釈も 図6 プラトンに伝えられたといわれているイシス銅板 16世紀(1525~27)トリノ美術館蔵

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- 19 - 入れて イ シ ス の密 教的 な 儀 式の伝 統 を 彫 刻の 形で 伝え た 銅 板は 、ル ネサンス当 時 には古代 の 実 物と 信 じ られて い た物で 、 そ の画面で は 、 各々 の神 は そ れぞ れ の 役割を 持 って お り 、 その役割を、特定の 動 物の部分や持 物( attribut )、道具 類によっ て表現 し て い ます。 イ ビ スの顔トット、 鷹 の顔のホルス、 死 者 の 霊魂を導く 犬 の面の ア ヌビス、 牡牛のアピスや鰐、 スフィンク ス 、スコ ル ピオ、ミ イラ や 冠 、玉 、首飾り、 棒、錫杖、 ス ケプトル ム、壺、さ らにそ こには、解 読不可能 な偽 物のヒエログ リフ が刻 まれ てい ま す が、 これ らは、 ル ネ サ ンス期以降、ヨーロッパ で 何度 も 複 写 さ れ て い ま す。中でも、一五五九年のエネアス、ヴ ィコ の複 写 が 有名です 。こ の銅板 は 完璧な宗 教世界を 描 い て い るも のと 信じら れ たため、 この 銅 板 をきっ か け と し て 、 エ ジ プ ト を 出 発 点 と する すべ ての 国 の すべ ての 神、 およ び 神 の動物や象 徴 、属性の比較目録が 作 られるこ ととな り ま し た。 こ の 銅板を註釈したロレン ツォ ・ ピ ニヨ ラ ( Laurenzo Pign oria ) は 、 印 度 へ の 旅 行 経 験 の あ る セ ロ ス テ イ ス と と も に オ シリ スの伝 説 に立脚 し た比較宗 教学を構想します 一三 。ア タ ナ シ ウ ス ・ キ ル ヒ ャ ー( 一 六 〇 一~一六八〇)は、エ ジ プト、 印 度、 中国、日本、ヨー ロッ パ、アメリカの神 々につい て の新 プ ラ ト ン 派的・汎神論的な解釈 lectio i dealis によ り、宗教 、 神 学、テ オ ソヒア [ 神智 学] 、 哲 学を同一視して 、 膨大 な 『 エジ プト のエディプ ス 』 ( O edip us Aegy pti acu s 、一 六 五 二年) を 著述 するとともに、 そ れ を略した 『 絵 図の 中国』 ( La Chine Illustrée 、 一 六 七 〇 年 )

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- 20 - を出版しま し た 一四 。 彼の哲学 で は 、世 界は 四つのレベ ル に分けられ、 神々が 表 し て いる宇宙的イデア と元素 的 な 概 念 から 成っ ていま す 。 こ の四 つの レベル ( イ デ ア、 理性 、 天 上、 元素 世界) は 、 眼 に見えな い「神的な中 心」から「 発 出」する さまざまな 神 々の働き によっ て 、お互いに通 じ合うも のとされて い ます 。アモ ン はす べ て を照らす 原 理 、最上神で あ り、イ シ スは 豊富 な 自 然、お 月 様 で 、 す べ て の形に 現 れる普遍 的、母系的な 自然界で あり、受け 身 の原理 で あるのに対 し て 、 オシリスは能 動 的 な原理 で あります。ホルスは所動と能 動 の両面を併せ 持つ原理 で す 。三者 で 一つのトラ イ アッド( 和の原理)を構成し て います 。 ただし、キル ヒャーは 同 じ 形 而 上学 の構造を、 三 つのレベ ルに よっ て 分 析 し て い ます 。第一 に 、光明的 な原理 が 心霊 な意向を表現し、隠れた 原 動力を明らか にする。 第二に、 宇宙的、湿 的 な暖 かい 精力が 、 上下往 復 の働 きにより常住 な物 質の生産を 起 こす。第三に、混雑し否定的な 勢力が、 人間や生き物 の欠点、 暗 い 精神、 嫉 妬心、 偽 善 、 闘争心を 促 す といいます 一五 。エ リファ ス ・ レ ヴ ィ ( Eliphas Lev i )は『 魔 術 の 歴 史 』 ( H istoi re de l a Ma gi e ) の中で 、 キルヒ ャー の イ シ ス 銅板 解釈 を原型 の 世 界 、理 性の 世界 、色 身 の 世界と し 、形 而上学 的 な 三 つ の レベルに納 め て い ます 。そ うした構造に従って 、 神々、ヒエログ リ フや漢字、属性等の習 合に より、 宇 宙で は em ana ti o (流 出 ) resorptio (帰 着) の両過程で 救 済的な プ ロセス が 進

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- 21 - ん で い る 、とい う わけです。 さら にも う 一 歩進めて 、キ ルヒャ ー は 比 較宗 教学 を試み 、 例 え ば 、 阿弥 陀は ホ ル ス か 、 ハルポク ラ ト とい う神 に当たると 言 っ て い ま す。日本の宗教 は 中国から輸入された も の で あるから、結局 は 、インドから渡来し、そして 、インド 渡来の も のはエジプト に由 来する と断言し て い ます 。 す なわち 、 日本に見られ る神には、 必 ずエジプトにおい て そ れに相当 する 神 が 存在 する はずだと言 う の で す。 中国と日 本 で 使われ て い る 漢字 も、エジ プ ト のヒ エログ リ フに相 当 すると思い 込んで い たよ うです。キルヒ ャ ーの日本の宗教 分 析の前 提 に はまず禅宗があり、禅宗の中にも 二 つの流れがあっ て 、一つめ は霊 魂 が 不滅 で あ る こ とを 認 め ない 人た ち で 、 こ れ は エ ピ クロ ス 派 に 当 た る と判 断し てい ま す 。 二 つめ は、 阿 弥 陀 崇 拝と分析 し、 それはピタ ゴ ラ ス 派に 当 た ると決 め つけて い ます 。 三 つ め は 、 法 華 宗で すが 、 こ こ では 日蓮 宗 の ことを言 っ て おり 、 そ の 中 では 弘 法大師 と修 験 道 と 僧 兵 を 一括 り に し 、 残酷な宗教と い う よ う に描 写 し て い ます 。そ し て 、阿弥 陀 は女性と 男性の両性を持つと言 いな が ら 、 主 と し て 女 性と して 扱 っ て い ます 。キ ル ヒ ャ ー の議 論は 、 た と え そ の 前提が 間 違っ て い たとし て も、比較宗教 学の始 ま り と はい える こ と から、ギメの興味 と関心を惹い たも のと 思 わ れます 。 今述べたような思想 を ある程度 まで受容し て いたギ メ の宗教観によると、 神 々 の 姿 や 属

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- 22 - 性、 宗教道具の役割な どは、 哲 学や形而上学 、 合 理的に組 織された概念 の世界を成 し て い ます 。 そ れが 先行す る イシス信 仰分析に影 響 されて い る ことは 、 彼の 幾つかの著 作 の引用か らも分 か り ま す。 『プルタ ーク とエジ プ ト』 の 中 で、 イシスは 大自然 と 思 惟 を表し、 す べ て の 神々 の積極的な 特 質を 掌る主 宰 神で あ り 絶対な る 者、 神 に も 憧 れて いる女神で あ る た めに 、 自 然界 、 人 間界と 絶 対 神 との仲介者、 宇宙の主 ・ 霊 魂の主宰者、 永遠たる キリ スト 教の神に近 い 存在にな っ て いきま し た。 それは 若 い 時 のギメが 読んで い た ネ ルヴァル の 「絶 対なる女性」の性格 を 帯び て い ま す 一六 。 前述し た 一 八 七八年のパリ 万国博覧会に おけ る展示方法は、 や はり 『佛 像圖彙』 の 順 序に従っ て、 仏 部 、 菩 薩 部 、 明 王 部 、 天 部、 権 現 部 、 高 僧 祖師部の順 に 成され て いますが、 ギ メの説明を み 図7 ギメ美術館 東寺立体曼荼羅配置図 『甦るパリ万博と立体マンダラ展』図録(西武百貨店、1989)から引用

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- 23 - ると 、こ れ を 無理やり 三部にまと め ようと し て い ます( 図 七)。第 一には 、 智 慧 と慈悲を 同 時 に沈 黙によっ て 表 現 す る大日 如 来を中心に、他の四つの佛 がその役割を分 担 し て い ま す 。 第二に 、 菩薩部は 佛と 同じ役 割 を 表 して います が 、 人 間 に 対 し 、理 性と 智 慧 に 基 づく 説得力の持ち主 で ある 菩薩は辯舌を働かせる 存在 でもあ る の で す。第三に、他の四部を含 め て 理性 と 智 慧 で は説 得 で きない衆生に対して 、 煩悩や 脅 迫を利用 し て 説得せざるを得 な くなる段階の存在 を表し て い ま す 。 この 分類は明らかに 、 イシス銅板の 分類を 模 範 と し て い ま す。 確か に強 引さが目 立 ち 、今 日か らみれば事実 に即し て い な い に し て も 、 ギ メ の新 プ ラ トン派 的 な 考 え方 を象徴し て い る点に意 味があり、 注 目に値 すると 考えます 。 ギ メは、 部 分 的に ですが大 胆 な 比較 宗教 学を試 し ているか ら で す 。 以 下 にその要点 を まとめ てみ ま しょ う。 まず大日如来の智拳印 はキリ ス ト 教 の大祭司 の手の挙げ 方 と 同 じ で 、阿弥陀仏は宇宙の 霊魂 であり 、 四佛や四 菩薩の髪の結い方はホ ルスのものと同じ です 。エミール ・ ビュルヌ フ( Émile B urnouf )著 『 宗 教 学 』 ( Scienc e des re ligio ns )を 参 考 に 、 般 若 ( H an-gnia )菩 薩 のグ ループは光、火、智 慧 、辯舌、論 法 、論証の 神であ っ て、ギ リ シ ャ のアグニ( ignis ) 神に当たり、 ラ テ ン語のアグヌスのヒエログ リフ( A gnus ) で もあります 。 文殊 菩薩 の 錫 杖( pedum )は如意珠と 同様に、人間の願い事をか なえます。日本 の 神社の建築 構 造も、

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- 24 - 鳥居を含め て 古代エジプトの 神 殿( naos, luc us , ecc lesiae )と 変わ ら な いほ ど 類 似 し て い ま す 一七 。 日 本を 散歩 すると エ ジプトの宗教を思わ せ るよ うな 遺跡に遭遇 し ます 。 鎌 倉 で 見た 子供の墓は エ ジプトの フタ Phtah を連想させ 一八 、 日 本 の 神 社 の 神 楽 も ま た 、 古 代 ギ リ シ ャ と印 度の宗 教 的な 舞を 思わ せます 一九 。 宗 教 の 象 徴 で あ る 道 具 の 中 で は 、 錫 杖 の 説 明 が 特 に 長文 で述 べら れ て い ま す。 錫 杖 を振 る う と、 人 間 が驚愕 す るべ く台風 ( Typhon )も 逃 げ 去 る 。 錫杖の 頭 にはす べ て の 原 素 が 含 まれ 、猫 も 表 象されて いる から 、雌猫が 同 時 に二十 八 匹の子猫を 生 む よ うに 、錫杖の頭 か ら二十八 宿が出 て きて 、生と死 の輪廻によ っ て 万 物を 生まれ変わ ら せ、 悪霊 を払 い、 霊 魂 をあの世に導くと いわれます 二〇 。仏 教 僧 が 着 て い る 袈 裟も 、お 墓 の 死 者 の 屑 の 着 物 か ら 出 来 た も の 、麻 製で あ る のが あ た かも イ シ ス の 崇拝 者 の 如 き でありま す。釈 尊 の 母 である摩耶 夫 人 は 、 メ ル ク ールの 母 であるマ ヤ、 キリス ト の 母 であるマ リ ア に ほ か な り ま せ ん 二一 。 北 野 天 満 宮 の 神 主 と の 問 答 を ギ メ が 自 ら 翻 訳 し 、 イ ザ ナギ とイザナミの男 女 の 神 の と ころに括弧 を 入 れ て(オ シ リス) と (イシス)と書 き 込ん で い るのは 、 エミール ・ギメの考え方をよく 物語っ て います 。 も っ と哲学的な レ ベル で 仏 教の因縁は、 プルタークが言 う よ う に、 神々を上まわる力と し て 、 ギ リ シャ ・ ロ ーマ哲 学 、 特にスト ア派の運 命( Fatum )の力 に 喩えられますが 、 それは、迷信から合理主義へ の 進 歩的な 思 想と 認められ ます 。

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- 25 - おそ らく、そ ういった習合 宗教 の構造 を 解 明 するため に、ギ メ は日本の僧侶 や神主 と 問 答を行ったの で し ょ う 。しかし、絶対者、宇 宙精神の智 世 界、個々別の煩悩の 俗 世界とい う三重構造 か らな っ て いるイシス 信 仰 は 、日本の習合宗 教 にうまく 当てはまりません。そ れゆえ ギ メ は 、最終的 に問答を翻 訳 す る のを あきら め た の で し ょう か。 ギメが 京 都で 出会った 僧 侶 や神 主 の す べ て が 判明して い る わ け で は あ り ま せ ん 。 しかし、 日蓮宗の何 人 かの他、妙満寺の高麗智 運 から聖典の リ ストを貰っ て い ま す。浄土真宗西本 願寺の飛雲閣 で 、 島地黙雷(一八三八~一九 一一)、赤松連城(一 八四一~一九一九)、 渥美 契 縁 (一 八四〇~一 九 〇六 ) や 他の 僧侶ら と 終 日 論議し た 貴 重 な記録 も 残 っ て い ま す 二二 。 真言宗の尊 壽 院住職、 金光寺信元(一八三五 ~一八九八 ) にも 会って い るほか 、 平家の子 孫に当たる 浄 土宗の聖 光寺主角谷 隆 音(一八 一 七~一八八三)からは 論 議以外に 、大黒天と 弁 財天に関す る 説明を受けて います 。 相国寺の末 寺、臨済 宗 興 聖寺の住職、斎藤龍關 (一八三 一 ~一八九二 ) は、白隠や仙涯に匹 敵 す る よう な 非常 に有 名な禅宗の説法者 で、大凶 院の教 導 で ありました(図八)。 天台宗妙法 院 の村田寂順 図8 臨済宗興聖寺の齋藤龍関から ギメに宛てた書簡 ギメ美術 館蔵

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- 26 - は 、 別 名 、 多 喜寂順と して 知られて います 。 北 野 天満 宮で は神 主八 人と 相談論 議 を 行 な っ てい ま す 。始 め は ギ メ 自 身 が翻 訳し てい ま す が、 話 が あま り に も 込 み 入 っ て きた た め 、 第 一の質問 で 即 座の論議を終え、書面 で の 返答を待つこと に し て います(図九、一〇)。通 訳者とし て 、 近藤徳太 郎と歌原十 三 郎以外に 、富井政章 ( 一八五八 ~一九三五 ) 、今泉勇 作( 一 八 五 〇 ~ 一 九 三 一 ) 、山 田 多 田 済 (一八五五~一九一七) が い ま した。 ギ メは関西 滞在 中に、大教院の説法者に数多く会っ て い ます 。お そ ら く 、 前記リ ス ト 以 外 に も 様 々な 人物 に 会 う 機 会が あ っ たと 思わ れ ま す が 、こ れ 以 上 の こ と は分 から な い のが 現 状 で す 。ま た、ギ メ が中宮 寺 の勢至菩薩の彫刻を入手した こ とは、ベルナール ・フ ラ ン クが突き止め ました が 、一体ギ メ が これを何 処か ら手 に入れた のか も分かっ ていませ ん。 図9 問答を仏訳しかけた未完原稿、 ギメの真筆 ギメ美術館蔵 図10 北野天満宮の神主八人との 問答草稿に附された神道の造 化に関する肉筆図 筆者不詳

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- 27 - ギメの問答を見ると 、 日本 の宗 教に関す る学 術調査を目 的 と し なが らも 、キリ ス ト 教 を 背景 と す る 自 分自 身の関心の所在がか な り は っ き り と 表れた 内 容 に なっ て い る、 と言 えま す。 ヨ ー ロッパ宗教 の 絶対 なる 神 と 対 比 し て 、 日 本の 宗教 では何 が 最高の 原 理 で あるの か 、 何が 善悪 の 基 準を 表象 す る こ と が で き 、 す べ て の 形 而 上 ・ 道徳上 の 問題に関 して 裁き を下 し う る 究 極の 権 威 者 は 何 で あ る のか 。 ま た 、 そ れ に 当 たる 原 理 とい うの は 宇 宙の 規 則 と同 じ で あるの か 、あるいはそ う い っ た 規則から 外れること があるのか 。 宇宙の主 宰者 で あ れ ば、規則から外れ て 奇 跡を起 こ す 力 もあるは ず だ が、実際にそ う い う主宰者は い るのか。 また、そ う い った 原理が常住 な るもの で あれば、個 々 の存在た る人間、 生き物 の 霊魂 とど のよ うな関 係 にあるの か。不可離な関係にあ れば、霊魂は不滅 であ るはず で あ る し、霊魂 滅論の場合 、 人間の死後、どのような運 命 が 待っ て い る のか。そ う いった原則 はまた、人 間の行動をどのよ うに 決め て い る のか。自然界に表れ て い るのか、あるいは、 経 典と いっ た 聖 なる言葉を記した証拠 に 基 づ くのか な ど 、 い ろ い ろ な角度から 、 同じ ことを聞い て い ます 。終 わ り に、神々と佛とは別 の よ う に見えるけれども、どう い った共通原 理 に基づい て 結 ばれ て い るのかと い う よ う な 配 慮のある 質問もし て い ます 。 各 宗 の 返 事 の 概略 を 紹 介す る と 、 次 の 通 りで す 。

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- 28 - ● ギメ の問 答 一、 Création 造物、造物者有無 神道 造化 三神即天御 中 主神。禪 宗 唯心ノ 所 現。日蓮宗 小乘魔 醯 首羅天「 神名」造作 大 乘 説因縁 所 成。真 宗 本 有自然ノ理。浄土 宗 衆生一 心 。真言宗 正報 業感 、依報 自 在 天梵天。天 台 宗 能 造 主宰不 立 、萬物心造 法 、因 果、真如 。 二、 Puisssance et vertu du Hotoké 幸災、威徳、 地獄天国の 果 報の主宰 Juge e t suje t de la rétributi on des a ctes 禍福所由 神道 神の 威徳。禪宗 無し。日 蓮宗 小乗 業、大乘眞 妄 。真宗 自己 ノ因縁 ヨ リ 感 招。 浄土宗 、 真 宗 因果自然ノ常理、隔絶セル古 今 ノ變化。浄土宗 自業 内因、佛神主宰賞罰 外縁、 唯 心所 造。 真言宗 地獄或ハ天 堂 ヱ 到ルハ 自業自得。 天 台宗 法身般若解脱ノ三徳、 常樂我淨ノ 四 徳、十力 四無所畏等ノ威徳。 三、 Miracles, Effets magiques 奇特、法力怪異 神道 無し 。禪宗 無、 神通力。日蓮 宗 神 通 力、不思議。真言宗 因果 自然 の常理。浄 土宗、真言宗 神通不思議。天台宗 禪定智 恵 咒力發得 、神通自在。

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- 29 - 四、 Vie future 來生、心 魂未來ニテ生死有無 神道 天に 魂不滅、罪悪人魂不歸 天。禪宗 心性不 生 不滅。日蓮宗 人魂漸滅 セサル。真 宗 三世展 轉 シテ無盡ナレハ三世即チ無始無終ナリ。浄土宗 人魂至処ハ此魂此身内。真 言宗 三世因 果 。天台宗 成毀ア ル 者ハ肉身ナリ 始終ナ キ 者ハ心魂 。 五、 Morale 心理(修行)、心を 理ム、耶蘇 教 の十戒 神道 神所賦の魂自識善悪邪正是非忠孝、 神 魂 歸天。禪宗 贅沢 な 質 問。日蓮宗 五戒 十 善、 諸惡莫作衆善奉行 。 真 宗 「諸惡莫作 衆善奉 行 自淨其 意 是諸佛敎 」 「 通戒 偈 」 。 浄土宗 本 律 寺、遁世寺、官寺三 寺。真言宗 戒 法 ヲ 護 持。天台宗 修心、戒定慧。 六、 H istoire et do ctrine 佛教 主意大概、宗旨の來歴、 来 歴と教示 神道 造化 三神、機能の萬神、人 、神武。禪 宗 「諸悪 莫 作衆善奉行自浄其意 是 諸佛教」 教外別 傳 不立 文字 。日 蓮宗 佛界 因果 ノ功 徳 受 得。 真宗 因縁生 起 ノ法 理。浄土宗 十界 同一佛性。 真 言宗 我身 即チ 佛 身 。 天 台 宗 顯密禪ノ三 。

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- 30 - 七、 Culte des mânes et des esprits 鬼神 D ieux j apo nai s et Bu ddh a 神と佛、佛説 神、 漢 神 、 國 神 神道 行、 威儀作法 清 浄 、誠 敬。 禪宗 天部 佛法守護ノ善神 租税ヲ 納 ムル。日蓮宗 隨 機縁崇奉、漢神崇敬セ ス。真宗 阿彌陀佛 ヲ 信奉スルノ外別ニ奉スル所ノ神ナ シ 餘ノ宗 旨ニ佛ノ變 化 身。浄土 宗 權實二 神 、三國 五 行詫神 。 真 言 宗 神徳霊妙不 測 、國家 守 護佛 法擁護、大國主=大黒神後 人憶説 。 天台宗 神則佛 佛則神。 八、 Textes sa crés de bas e 所依の佛經、佛祖書目 神道 『古事記』『古事記傳』 『 日本 書紀』『日本 書紀通證』『大日本 史』 ( 水戸學 ) 『古 史成文』『 古 史傳』( 平田篤胤系 統 )。禪宗 『臨濟録 』『金剛般 若 波羅 蜜經 』『般若波 羅蜜 多 心 經』 『傳 法正宗記 』 『 本朝高 僧 傳』『興 禪護 国論 』等 。 日 蓮 宗 『法 華經』「十 巻」 百四十 八 編 「 四十 冊」 (録内) 二百五十 九 編 「二十 五 冊」 ( 録外 ) 『註 法華 經』 「十冊 」 『 註 法 華 經 義 』「二 冊 」『日向 講 聞 書』「 一 冊」檄文 十 一 編「一 冊 」(十一 通 廻 状 ) 他受 用祖書 「 六 冊 」 。 真宗 『佛 説無量壽經』 二 巻 唐僧鎧 譯 『佛説観 無量壽經』 一 巻 畺良耶 舎譯 『佛説阿彌陀經』 一巻 鳩摩羅什譯。 浄土宗、 真言宗 『大日經』 『 金剛頂經』 等 『秘 密儀軌』八十巻四部儀 軌 『 享和儀 軌 』及初 中 後ノ儀軌 『 蘓 悉地經』『蘓婆呼童子經』『釋

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- 31 - 摩訶衍論』 『 菩 提 心論』 。 天台宗 『法 華』 『 仁 王 『 金光 明』 ( 三経 ) 『 大 論』 『中 論』 ( 二論 ) 『 法 花 玄 義』 「二 十巻 」 『 法花 文句』 「 三十巻 」 『摩訶止觀』 「四 十巻 」 『 觀 音 玄義』 「 四 巻」 同疏 「 四 巻」 +密 教之部 『 大 日 經 』『 金 剛 頂 經 』『 蘇 悉 地 經 』 『 瑜 祇 經 』 『 要 畧 念 誦 經』 ( 五部秘經 ) 、 大儀軌 「 百二十 八 巻」 享和 儀 軌 「十二 巻 」 + 『 觀 無 量 壽經』 『 大阿彌陀 經』『小阿 彌 陀經』 ( 極樂 淨 土 ) 。 一種 の追記と し て 、真 言宗にのみ あ る項 目、 すなわち「印ノ義」 で ありますが 、 印とい うの は印可受定不 改 ノ 義 で あり、 三丗ノ諸仏十方ノ薩埵 各印相印義で あります 。 す なわち 、 「 佛 菩薩ノ本 誓」 で あ り、 「 手 ニ 結 ヒ顕シテ 改轉セザル義ヲ印ト云 」 、 「 各 々尊 々ノ本 誓 」 にあたると い う項目が 注意されますが 、 他の 宗派にはな い 道具の部 の中で ジ ェ ス チャーの 象徴的な意 味 を追求す るために、 ギ メはそれを特別な 質問とし て い ます 。 問答 はこの よ うな項目から成っ て い ます。返 事を見比べ た ギメは、主宰者を認 め る神道 と主宰者を 認 めな い仏 教と の間に は 大きな ギ ャ ップがあ り 、両方の 信仰者で あ る 同じ日本 人は その ギ ャ ップをど う 考 えて い る のか知り た い と 思 い 、 最後 に神 と 佛 と の 結 び つき につ い て 質問しますが 、 こ の問題に関 し て は まと まった結論が出 て いま せん。また 、 個々の問

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- 32 - 題に関し て も まとまった統一され た 返事は得られませんでした。実は造 物主に関し て 、 縁 起、因縁、唯心、真如 等 は 教学的 に も結びつけられます が 、ギメの時代にはそう いった概 念に関する 知 識と分析がまだ 不 足 し た状態に あり ましたから、ギ メ にとっ て は 、 どうし て も自 己の 理解 を 超 えた概 念 に と どまっ て い た と言 わざるを得 ま せ ん 。 問 答 を 翻訳 するの を あきらめた 彼 は、それでも引き続 き 、凝然の『八宗綱要 』 を学芸員 のアルフレ ッ ド・ミリ ュー ( Al fred Milli oud 、 一八六四~一九二九) に 翻訳させ て み ました が 、 満 足する よ うな結 果は出ませ ん で し た 二三 。 仏 教 学 の 知 識 の 進 歩 を 待 た な け れ ば な ら な い と 悟 っ て い た の で は ない でし ょ う か 。 問答のテ キ ス トに関して 言 えば、フ ラ ン ス語と日本語 で は 場合によっ て 、 異 な る 言い回 し を 使 っ て い ま す 。質問 全 体 を ながめ ま すと、 ギ メ は 、西洋 の 宗教に共 通 の 原理 があるよ うに、東洋の宗教 にも 共通の原理があるはずだとい う 考えを持っ て いたの で はないか と思 います 。 フラ ンスの思 想史にと って 十九 世紀は 、 合理的 な 宗 教 、世 俗的な 宗 教を求 め た時 代 で あっ て 、 人間の理 性に外れる 考え方があ れ ばそれを 外し ても よ い とさえ考えられ て い た時代 で し た 。 思う にギメは、 自 分が 設定 した 質問には統一され た 返事を期待して い ま し た。しか し 、 バラ バラ な 返 事 し か 得 ら れ ず、お よ そ統一で き る よう な 答 えはな か な か 出て こ な か っ たの

(36)

- 33 - で、 彼 は おそらく、 東 洋の宗教 構想 を 解 き明か す 鍵 は 得 ら れなかった と い う 認識 に達した。 それで 、 日 本 の僧侶や 神主から受 け た返 答の 翻訳をあき ら めたのに 違 い あ り ま せ ん。 ギ メ は、古 代 とルネサンス時代の イ シス信仰の解釈 に 基づい て でき 上 が った混淆宗教 を 分析し、キ ル ヒャー等の世界宗教の分析を継 承・ 徹底しながら も、一 方 ではそれを一 旦 は 棚上げにして 東洋の宗 教を現地調 査 し、その 比較を試 みました。そし て 、比較の結 果 、諸 宗教に上下 関 係をみる 、旧説の進 歩 史観に立 脚したヒエラ ルキー観を捨 て 、 その代 わ りに 諸宗教を平 等 化し て 捉 えよ うとす る 新説の方法論を考 え よ うとし て 、「宗教学」を構想し ま し た。確 か にギメの 問答 で は 彼が 期待し て いた普遍的な ルールや 規則 性は 見 出 されず、 ある意 味 に お い て ギメ の目論見は 失 敗に 終わ って いる よう に 見 えま す 。 しかしなが ら 実際 には、現実の東洋の宗 教に 触れる と いう 衝撃的な 体験を し て い ます 。その点 で 、 ギメによ る問答 は 、宗教 学 という学問の進 展 に大 きく 寄 与 した と 言 えるの で はない で しょ うか。

(37)

- 34 - 注 一 Le Positivisme spiritualiste. De la méthode con scientielle et de son application en ethnographie (1879), La

Méthode conscientielle, essa

i de philosophie exa ctiviste (1887) という 著 作 を 残し て い る 。 二 Congrès Intern

ational des Orientalis

tes, Premier Congrès des études japonais

es, 1re session, 187

3, à Paris, de 1873, p.XX. 三 Nippon の第五 巻 とし て 、 Pant

heon von Nippo

n, Butsuz ō zui ( Fü siang t’û wei ) を翻 訳し てい る 。 副 題 を Da s

Buddha-Pantheon von Nippon,

aus dem

Japanischen Originale

übersetzt

und mit erläuternden Ammerkungen

Ve rse he n, von D r, J. Hoffmann. pp. 45–176 + in dex. とし、 注には

Buts zô dsui, sive

adumbrationes imaginum

buddhaicarum, conditorumque sectarum

theologicarum, Delineav

it

Tosano seô sô Kino Fed

enobu

, 1690, 5 vol.

in 8°. Ed

. alter

a 1696. Conf.

Catalogus librorum et manuscriptoru

m Japonicorum a Ph. Fr. de S iebold collectorum, an nex enumeration e illorum, qui in Museo Regio

Hagano servantur. Lugduni Batavorum

1845.

ある。ホフマンは

Fü-siang t’u-wei so-jin jun

g-schû mulu 佛像圖 彙 所 引 用 書 目 録 を 参 考 に して い る 。 同 、 pp. 160–162 。 p. 38 : Anhang I . AlphabetisVer zeichniss der im japanischen Buddhapantheon citirten schinesischen und ja panischen Werke. 四 Ph. Fr. Von Siebold:

Nippon, Archiv zur Beschreibung

von Japa

n, Und Dessen Neben

(38)

- 35 -

Jeso mit den

Südlichen Kurilen , Krafto, Kooraï und den Liukiu-I nseln, nach Japanischen und eu ropäischen Schriften und ei genen Beobach tungen , bearb eitet von Ph. Fr. Vo

n Siebold.…Fünfter Band : Abth

eilung V.

Pantheon von Nippon. Abtheilu

ng … Leyden , B ei Dem Verfas ser, 1852. pp.1– 186, + tables LXXIV. 五 Promenades ja ponaises , p. 12. 六 Rapport au Mi nistre de l’Instruction P ubliqu e et des B eaux-Art s sur la missi on scientifique de M. Emile Guimet dans l’Extrême-Orient , Lyon, 1 878. 七 Exposition Universelle, Galerie s historiques Trocadéro. Religions de l’ Extr êm e-Or ient.: NOT ICE EXPL ICAT IVE

sur les objets ex

posés par M. É m ile Guimet et s ur les peintures et dessins faits p ar M. Fél ix Régamey . Paris, Ernest Leroux, Editeur, 1878, p. 5. 八 ギメは、 仏教 は他のすべ て の東洋宗教を 含ん で い ると 、 晩 年 で も例え ば 『老子と バ ラ モン教』 (一九〇 四年) で 論証 し て いる 。 九

Comptes rendus de l’Acad

émie

de

s Inscriptions et Belles-Lettres

, 1896.

一〇

Nouvelle revue, Paris, 1898.

一一 Revue archéolo gique, t. 36, 190 0, et t. II, 1912 , t. XX, 1914, et t. V, 1916. 一二 一九四 五 年に ギメ美術館は 国 立 美術館と なる。

(39)

- 36 -

一三

Vere e noue im

agini de gli dei

de gli antichi,

Im

ages anciennes et nouvelles des Dieux des Anciens,

1615. 一四 ギメ美術館図書 館 が La Chine Illustrée 所 蔵 し てい る こ と か ら 、 ギ メ が そ れ を 読 ん でい た と 考 え ら れ る。 一五

Véritable et naturelle interp

rétation de

la table I

siaque

(Vera &

genuina mensa Isiaca

, sive tabulae Bembinae

interpretatio ), p . 341. 一六 ネルヴァルのイシ ス信仰と フー リエの思想的影響につ い て は、 カ ミ ーユ ・ オ ボー Camille Aubaud の研 究、 « Anamorphoses d ’Isis dans l’oeuvre de Nerval » 、 Tex te d e la communicatio n au Groupe Hu go du 21 octobr e 1989 を参照 さ れたい 。 一七 Exposition Universelle, Galerie s historiques Trocadéro. Religions de l’ Extr êm e-Or ient. : NOT ICE EXPL ICAT IVE

sur les objets ex

posés par M. É m ile Guimet et s ur les peintures et dessins faits p ar M. Fél ix Régamey . Paris, Ernest Leroux, Editeur, 1878, p p. 7–12. 一八 Idem . 一九 Idem , pp . 43–4 4. 二〇 Exposition Uni verselle, Galeri es historiques, 1878, p. 13 . 二一 Exposition Uni verselle, Galeri es historiques, 1878, , pp. 13–15 .

(40)

- 37 - 二二 Annales du Musée Guimet , 188 0, tome I ; Montai ryakuki : Fu Ky ōgi ryakut ō, Tokyo et Kyoto 1877. 島地黙雷 の全 集第五 巻 Montai ryakuki 『問對略記』 という題で 刊 行されて いる。 二三

Millioud, Alfred: « Esquisse des huit

sectes bou

ddhistes du Japon par Gyau-n

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et sur les peintu

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(42)

- 39 - Régamey . Paris, Ernest Leroux, Editeur, 1878. Fe rne ty, A. J. : L es Fables égypti ennes et gr ecques dévoilées et duites au même pr incipe avec une explicat ion des Hiéroglyphes et de la Guerre de Troye , 2 vol. in-12, Paris, 1786. 1064 et 10177 32.VI. Frank, Bernard: Le Panthéon

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